法哲学
公民(政治・経済、現代社会)
「世の中の正しいこと」を守ってくれるのは誰?それはきっと法律を究めた人たち。と、「教授の授業」取材班は、そんなことを漠然と考えながら、名古屋大学(注1)の大屋雄裕先生の研究室を訪問しました。
大屋先生の専門は、法哲学です。多くの人にとって、「法学部」の漠然としたイメージはあっても、「法哲学」というのは、あまり馴染みがないのでは?これは、「教授の授業」としては、紹介する醍醐味がありそうです。ところが?!
注1:取材時と2015年10月以降とで所属大学が異なります(2015年10月に慶應義塾大学法学部に着任)。
せっかくですが、「法哲学がしたくて法学部へ来る」というのは、あまりいいことではないと思います。
法哲学は、法学の本流ではないからです。哲学がやりたいのなら、哲学科へ行った方がいいし、法学をしたいのであれば、本流の実定法学を目指すべきでしょう。法哲学は、法学の科学的側面を研究するのですが、ここは、「法学部に入ったけれども、どうも合わない。ついていけない」という人が能力を活かす場所の一つなのです。成績が良いからとか、就職が良さそうだからとかで、法学部への進学を考える人も多いかもしれませんが、法学部というのは、向き不向きがハッキリしていますので、向かない人は入ってこない方がいい。そういうことを、教員として伝える責任があると思っています。「法哲学」は、本流ではなく、いわば中間領域の学問なので、最初からここを目指すのは、何かが間違っていると思います。
まず、自分の良心を忘れられない人は、まったく向きません。正義の人は、法学部に来てはいけないのです。法律家という括りにおいては、どういう立場で仕事をするのか、決められていないからです。たとえば、Aさんから借金をしたBさんがお金を返せなくなったとします。法律家ならば、事実関係の中で、AさんBさんのどちらの立場に立った場合でも、正当で有利な議論を組み立てられなければいけません。自分の良心を棚上げして考えることが要求されます。
次に、法律家の仕事は、法律を現実にあてはめる解釈の技術、操作方法を考える仕事なので、ある種パズルで、論理的思考が得意な人には向いています。ですが、議論で他人をやりこめることが好きなだけの人も、大成はしないでしょう。なぜなら一度は棚上げした良心を、最後のところでは戻して、社会が求める正義・倫理感は何かを考え、社会的に正しい結論を考えなければいけないからです。社会が受け入れる結論でないと、意味がありません。また、論理的思考という面から言うと、数学の証明問題が苦手な人は、来てもツライだろうなあと思うところがありますね。
「リーガルマインド(法律家らしい考え方)」を身につけるのが法学部です。この「リーガルマインド」というのが何か?というのは、実はよくわかっていないのですが、私が考えるのは、「いったん自分の良心を棚上げにする能力と、社会の中で自分の良心を実現する能力」を持っていることです。バランス感覚が非常に要求されます。法哲学も、自分が実践できるかどうかは別としても、この考え方を知っていないとできません。つまり、実定法学をしっかりやってからでないと、法哲学もできませんよ。
ひとつめは、考えることの大切さです。卒業したら、世の中で「何が正解になるのか」をつくっていかなければなりません。たとえば行政の現場なら、「自分としてどうするのが社会のためなのか」を常に考えなければいけません。大学は、やれと言われたことをやればいい人間を卒業させるための機関ではないのです。何が正解かを「考える」ことができるのは、何よりも大切です。
ふたつめは、考えることの楽しさです。「やってみると楽しい」ことを分かって欲しい。自分も相手も納得できる説得をいかにするか?など、考えるというのは、とても安いエンターテイメント、知的興奮です。私なんか、鉛筆とノートを渡されて部屋に閉じ込められたら、ニコニコしちゃう。そういう快楽ってあるんだよと伝えたいですね。そして、考えたことに対してお金をくれる人も、社会の中には一定数います。考えることは、社会にとっても自分にとっても価値があるんだってことを伝えていきたいです。
慶応義塾大学 法学部に進学してください。詳しくは、参考リンク先等をご確認ください。
この案内文は、2015年10月に更新致しました。
■このページの情報は、2009年9月の取材を元に作成された情報です。
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まず何よりも本を読むことをお勧めします。理由は2つ。ひとつめは、法学部の仕事は、文章を読むことです。大量に読みます。本を読む能力がないと、まったくついてこれません。ふたつめは、たとえば新書などは、何かを説明し主張するために書かれています。そういう文章を大量に読むことによって、説明をするには、説得をするにはどういう書き方があるのか?を勉強してほしいと思います。法律家の仕事は、相手に論理的に何かを主張することなので、それを身につけておくと良いでしょう。
誰かが考えた答え、誰かが決めた正解を繰り返せるようになればいいんだと思っている学生がいっぱいいます。しかし、本当に求められているのは、自分で考えて正解を作っていくことです。特にこれからは、上の世代が考えた経済成長に依存する社会のあり方が行き詰まって、だれも正解を知らない時代に入っていくでしょう。今までとは違う日本社会のあり方を、自分たちで考えることが求められています。
ところで名古屋大学の予算のうち、学生さんの授業料でまかなえるのは8分の1程度です。残りの8分の7は、国や地方自治体、企業や財団から支援してもらっているお金です。その支援には、大学が育てる人材への期待が込められています。直接的にボランティアをしろという意味ではないのですが、自分たちの受けた教育に向けられた期待に応えるよう、社会に貢献する人材になって欲しいと、学生たちには伝えています。
法哲学者としての仕事が必要になってきている面が増えてきました。これは社会としては危険な兆候です。法哲学は、「そもそも論」をやる学問です。「そもそも」正義ってなんだろう?とか。「そもそも論」は、社会が平和で成長しているときは、いらない学問です。これを必要とするのは、社会がもうこのままではいかんという状態になっているということです。過去のような高度経済成長も期待できませんし、今後低成長からマイナス成長になっていくと、人々の思考は、「自分が社会からどれだけ利益を受けられるか」ではなく、「誰がどれだけ痛みを引き受けるか」になります。そうなると、正当化原理(どのような政策が正しいのか等)を真面目に考えなければいけません。
しかし一方で、社会全体が「考えない」方向に動いています。分かりやすいところに悪者を求め、反射的な反応を強くするようになっています。手紙等が伝達手段だった昔に比べると、インターネット上のサービス等により、コミュニケーションの速度が上がりました。それによるプラス面はもちろんあるわけですが、考えないことのマイナス面も意識してほしいですね。
俗な回答では、勉強すると、お金が儲かります。お金があれば幸せになるというものでもないですが、同じ状況においては、あるよりは無いと不幸、という傾向があります。勉強以外にやりたいこと、やれることがあってお金を稼げる見込みが立つ、またはそれに賭けて人生に後悔しないのならそれもいいでしょう。勉強するのは、一番安全な方法なので、これではいかんと思うところまではやってみてもいいんじゃないのと思います。
別の回答をすると、勉強は、やってみれば面白いことがいっぱい待っています。やってみないと分かりません。同じだけの情報が世界には与えられているはずですが、それを理解する能力、受け止める能力がなければ、世界にどれだけ楽しいものが転がっていても、意味がない。ということで、人生を楽しむために重要なのです。たとえば、野球を楽しむためには、ある程度まで体を鍛えていないと楽しめませんが、基礎体力をつくる訓練は確かにつまらないかもしれない。でもその先にしか楽しみはありません。
高校時代は1日に1冊~2冊を読破していたという大屋先生によれば、たくさん読んでいるうちに速読技術は自然に身につくそうです。 本を読むとき、文字を頭の中で音読しているとしたら、まだまだ読書量が足りない?! たくさんの読了本の中から、お勧めの本をご紹介します。
日本の殺人(ちくま新書)
河合幹雄(著)
日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ(中公新書)
飯尾潤(著)