環境教育、科学教育、行動生態学
理科、社会
「環境教育」にいちばん近い教科って、なんでしょうか?「教授の授業」取材班が、宮本康司先生に尋ねると、「う~ん…高校までは、環境という教科も、他の人にものを教える教科もありませんので、直結という意味では対応する科目はないですね」という回答が。確かに!教え方を教えてもらう授業は受けたことがありません。
注:取材時と2011年4月以降とで所属大学が異なります(2011年4月にお茶の水女子大学から東京家政大学へ異動)。
現状、小学校から高校まで「理科」という教科はありますが、「環境」という教科は、ありません。しかし、理科で学習する内容はそのほぼ全てが、環境問題を理解・解決するうえで基盤となる内容であると言えます。ですから、「環境教育」に携わりたい人は、いまのところ進路として「理科教育」を選ぶのがよいと思います。「理科教育」を職業とするためには、確かに「理科」をちゃんと勉強しておかないといけません。さらに「教育」の職業を志すのであれば、「理科」が好きなだけでなく、「社会の仕組み」も良くわかっていないといけません。つまり「理科」が好きなだけでなく、「社会科」も好きでいてほしいですね。
「社会や暮らしの仕組み」を良く理解していることが重要です。極端な言い方かもしれませんが、「子どもが大好き」とか「なにかを教えるのが大好き」というよりも、「幅広く自然が好き」とか「社会の仕組みに興味がある」という人が志してくれると嬉しいですね。「自然が好きで社会の仕組みが好きだ。それらに働きかけるためには子どもに関わるのが一番良い」という考え方が、僕はいいんじゃないかなと思います。「教育だけがしたい」のではなく、「他の研究対象や専門分野を持ったうえで教育を選択する」という形です。
はい。研究者の場合にも言えるのですが、例えば、「イルカだけが大好きでイルカの研究をしたい」という人と、「生き物全般が好きでその仕組みを知りたくてイルカを研究の対象にしていく人」では、探求力に大きな違いがあります。前者よりも後者の方が、研究に深みがでます。どちらが良い悪いではないんですが、教育を職業にするうえでは、「人にものを教えるのが好きだから」ではなくて、「社会の仕組み全般に興味があって、教育の道を選ぶ」というスタンスが向くのではないかと、僕は思います。
正直言ってしまうと、他の教科に比べて「理科大好き」というわけではありませんでした。理科というか、生き物や自然が好きで、釣りをしたり魚を飼ったりするのは好きだったんですが、「理科の授業」よりは、古文とか漢文とかが好きでしたね。大学では動物行動生態学を専門とするようになり、浅い海や潮だまりの生態学を研究しています。
教職に就く学生には、「ずっと学び続けないといけない」ということを伝えたいと思っています。大学を卒業して22歳や23歳で学校の先生になっちゃうと、その年齢からずっと「先生」になっちゃいますよね。しかし、上司や、校長先生などの上の人からも「先生」と呼ばれるようになることが、その年齢にとって良く作用するかっていうと、そんなわけもないです。ですから、余計に「学び続けなければいけない」ということを強く思い続けて欲しいと思います。給料をもらう以上、組織の中で何がしかの使命を持っています。学びにも教育にも完璧はなく、終わりはありません。
僕の授業は主に、東京家政大学の環境教育学科の学生、および他学科の教職課程の学生が受講しています。詳しくは、参考リンク先等をご確認ください。
■このページの情報は、2009年11月の取材を元に作成された情報です。
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ぜひして欲しいことが、ふたつあります。ひとつは部活です。集団で動けない人は、社会に出たときにうまくお金を稼げません。部活には上下関係があって、仲間がいて、人とのつながりを学ぶことができます。受験勉強で紙と取っ組みあっているだけでは得られない必要な経験です。
もうひとつは、釣りです。釣りに行くのって、一日作業なんですよね。前の日から支度して、餌を用意して、朝早く出発して、でも簡単には釣れない。向こうも命がかかっているからなかなか釣れない。そこで、「どうやったら釣れるかな」って考えることになりますので、探究心が育ちます。そして、地球上の命のつながりが実感でき、自分の立ち位置、役割がわかってきます。釣りをして、「生きるということ」を考えましょう。
ハングリー精神を持ってください。最近、死に物狂いの学生を見なくなりました。僕も学生のころを思い出すとぬるかったなと思うんですけど。自分が生かされていることを理解して、いま何歳で、ここで学んで、社会でどうするのか考えて、いつか死ぬことも考えて、精一杯やって、ゆくゆくは「日本の国をこうしたい」という気概があるとありがたいですね。
それから、社会の仕組みを知ってください。例えば、ファーストフードにはすごく安いメニューもたくさんあるんですけど、そのすごく安い値段を「おかしい」と思わないのは変ですね。どう考えてもおかしいですよ。ハンバーガーなら、牛さんを育てて、運んで、調理して、やっと商品になるのに、「なんでそれでその値段?」っていう値段で売られているものもあります。それをみんなあんまり考えないみたいで、「安い!行こう!」って思うだけ。まともに考えたら、口にしていいはずのものじゃない。モノには「ふさわしい値段」があるはずです。無駄に壊す行為は、いつか自分たちにしっぺ返しが来ます。ものすごく安い値段ということは、どこかでものすごく安い賃金で働いている人がいるということかもしれないし、当たり前ですが人間は食べたものでできているのですから、「安けりゃいいじゃん」で食べていたらまともな体、まともな脳になれません。
子どもがテレビを見る時間帯に、消費者金融のコマーシャルが流れるような社会はオシマイです。そういう状況を認めるということは、「いくらでも借金してかまわないよ」と言っているということで、「ご利用は計画的に」とか言っても、計画的な人は借りないわけですし。そういうことも含めて、国全体の意識、お金の仕組みへの意識が心配です。結局、お金と言うのは、地球を削り取ったものですから、全員がお金持ちになりたがったり、ダイヤモンドを持ちたがったりしようとしたら、地球がもちません。「身の丈で暮らす」といったところでしょうか。
「稼げるだけ稼いで貯めるだけ貯める、足りなくなったら借りればいい」というのは文化が成熟していない社会です。ある程度の労働を他人に提供をして、ある程度のお金を得て、ある程度の税金を差しだして、医療費や教育費の心配がない社会にシフトしていく必要があります。そういう社会に一足早く進んでいるのがヨーロッパです。ヨーロッパ型がそのまま日本に当てはまるとは限らないんですが、日本はまだ高度成長の幻影をひきずっているのかなぁ。僕もまだ、こうすれば解決だっていう明確なプランを持っているわけではないですが。
その答えは、大きく二つあります。ひとつは、加工貿易をするためです。日本は勉強しないといけない国なんです。資源がないから。他の国の人が喜ぶことができないと、ご飯を食べていけません。現状では、自動車や精密機械を造れなくなったら、国が存在できなくなります。子どもたちが将来も存在できるために、勉強しないといけないのです。
もうひとつは、生きる意義を把握し続けるためです。知らない事に触れ続けるのが勉強です。それをしないと、「何で生きてるのかな」ってなっちゃいますよ。大人は、「何で勉強しないといけないの?」という質問にちゃんと答えられないといけないと思います。