美術史、日本中世絵画史
国語、日本史、美術
自分はこれまでに「死体」を見たことがあるだろうか。「教授の授業」取材班は、金城学院大学(注1)の山本聡美先生の研究室を訪問して、そんなことを思いました。
山本先生の専門は、日本中世絵画史(美術史)です。…と書くだけでは、情報不足なのです。思い切って書くと、中世日本の「死にまつわる美術・文化」を研究している先生です。美術史にはそんな研究もあるんですね。
注1:取材時と2019年4月以降とで所属大学が異なります(2019年4月に早稲田大学へ異動)。
はい。鎌倉時代と室町時代の絵巻には、死体の絵が描かれているものがあります。もともとは、お坊さんが修行(観想)するための絵だったのですが、室町時代の絵巻には詩や和歌も書かれていて、文学的な側面を鑑賞するものでもあったようです。ところで、ここでいう「死体の絵」には名前があって「九相図(くそうず)」と呼びます。「九相図」とは、死体が腐乱して白骨になるまでの九段階を絵にしたものです。簡単に言うと、「人間の体は穢れたもので、執着するに値しませんよ」という宗教的な思想を表したものです。
不思議なのは、この「九相図」が絵巻の中に登場するのは、中世の日本だけなんですよ。シルクロードの真ん中あたりに残っている古い作例は壁画ですし、日本でいちばん古い「九相図」の現存作例も、絵巻ではなく掛け軸に描かれています。そして江戸時代後半になると、また掛け軸に描かれることが増え、本として印刷されたりもしました。つまり、絵巻に死体を描くというのは、中世日本に特有の文化であるようなのです。
「九相図」は、なぜかすべて女性であるという点や、絵巻の作例の多くに日付が書かれている点なども特長です。とにかく謎が多く、「どうして女性だけなの?」とか「どうして絵巻に描かれたの?」とか「どうして詩や和歌がくっついて文学的なものになったの?」とか「日付には何の意味があるの?」とか、好きではじめた研究だったのですが簡単には結論に至らず、途中で「九相図」をちょっと離れて、「六道絵」の研究などもしていました。
ところが、あるとき意外なところから突破口が開けまして、文学研究者の西山美香先生との出会いをきっかけに、美術だけでは見えてこなかったものが見えてきたんです。文学研究の分野では、檀林皇后や小野小町といった伝説の美女説話と「九相図」が結びついている点に、広く関心が持たれていたようです。二つの研究分野の「なぜ?」を出会わせることによって、謎をときほぐす糸口が見えてきました。そうして、美術と文学が出会って、宗教的な側面だけでなく、説話や和歌を手掛かりに「九相図」を幅広く捉えてみようというのが今の研究状況です。
最初のきっかけは、曾祖母のお葬式で、2歳くらいの頃のことです。火葬場でお骨あげというのをしますが、それを見たときに、「あ、骨がある」って思ったことを鮮明に記憶しています。その後、祖父が亡くなった時には、10歳くらいになっていたと思うんですけど、大人たちは「お骨あげは子どもにはショッキングだから」と言って、つれて行ってくれませんでした。私からしたら、「知ってるよ」という事だったんですけど、でもそれで、「死体というのは、見ちゃいけないんだな」となんとなく感じました。今思えば、そういうものを見ずに大人になっていくのが現代社会なのかなぁと。私の場合、たまたま最初の記憶がずーっと心に残っていたので、その後の興味の根っこになったのかもしれません。
初めて「九相図」を見たのは、大学3年生の時です。授業で鎌倉時代の作例として紹介されたもので、すごいインパクトでした。普通の絵巻と同じフォーマットなんだけれども、まったく違う存在感を持っていて、「なんでこんなものがあるんだろう」って思って調べはじめました。でも学部の卒論では、現代美術の身体表現の研究をしていて、まだ「九相図」のことは少ししかやっていませんでした。セルフ・ポートレイトの「森村泰昌」「シンディ・シャーマン」とかが最初の研究対象でした。
「絵巻」なので「美術史」だろうな~と(笑)。そこで、大学院に入りたいと思って、最初に「九相図」を見せてくれた先生のところへ相談に行きました。ところが「この先品を研究したい」と言ったらですね、「美術史の前後関係とつながりにくいから」ってやんわりと断られてしまいまして、もうちょっと研究計画をたてなくちゃということで一年浪人しました。そうこうしていたら、先の先生が退職されて、新しくいらした先生が「前の先生がやっていたことなんだからしょうがないね」と(笑)。どさくさまぎれで入れてもらえたという経緯です。だから、この研究が将来何かの役に立つという展望は、その時点では全くありませんでした。
「就職につながらなくてもいいから好きなことを学びなさい」というのは、大学で教員をしている私としてはおおっぴらには言いにくいんですけど、文学部というのは、そもそも職業に結びつきにくいところです。卒論の研究テーマが特定の職業に直結するなんてことは、まずないです。ですので、むしろ、学部生の段階では自由な発想で研究テーマを探せばいいと思っています。そのかわり、研究のプロセスはがっつり指導します。卒業論文を書くとなると、先行研究を踏まえ、読むべき参考文献を読み込み、内容の章立てをし、調査や執筆のスケジュールを立てるなどたくさんの作業が必要です。論文という製品をつくるために必要なことは何か、一連の手順をきちんとこなせるように指導します。その手順さえ自分のものにできれば、社会人になってからの仕事のやり方に結びつくのではないでしょうか。プロセスさえしっかりしていれば、コンテンツを入れ替えても良いものを生み出すことができるという考え方で指導しています。
まずは、今身のまわりにあることが全てあたりまえじゃないんだよっていうことを伝えたいです。日本文化の過去を振り返ってみると、驚くような日本人の姿が見えてきます。私が中世日本美術の勉強をはじめたとき、自分の思い込みとか予想を裏切る事実の連続でした。文化って、雅やかで美しいものだとばかり思っていたのですが…。
また、現代と比べてみることによって、かなり違っている部分もある一方で、現代文化の根っこになっているものもあって、今の私たちは過去と無関係に存在しているわけではないことも実感できます。中世美術は、古文が難しいという印象や宗教的な内容への抵抗感からか、若い学生には食わず嫌いされてしまうこともある分野ですが、絵画をじっくり見ていると、中世の人たちも、今の私たちと同じようなことに悩んだり楽しんだりしていたんだなと感じます。時空を超えて、感情を共有できるおもしろさも伝えたいですね。
早稲田大学文学学術院(文学部美術史コース)に進学してください。詳しくは、参考リンク先等をご確認ください。
私のゼミには、「高校までは友達と歴史や文化について熱く語れる場所がなかったけれど、大学に入ってそういう話ができる友達がたくさんできた」そんな学生(いわゆる歴女)が多いです。「こういうこと好きなんだけど、でもどういう言葉で説明したらいいかわからない」という彼らの熱い思いに、研究としての形や言葉を与えるのが私の役割です。
■このページの情報は、2009年11月の取材を元に作成された情報です。
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■所属大学の情報は2019年4月の情報で更新されています。
「見ること」が好きな人、視覚的なもの(美術に限らず漫画、映画、ドラマ、ゲームなどなんでも)が好きな人に、美術史は向いています。ぜひ、感受性の豊かなうちにたくさんの美術館・博物館へ行って、好きな世界を見つけてください。好きな理由はわからなくてもいいですよ。「どうやら自分はこのような形や色が好きらしい」と思えたら、大学に入ってからその理由を探すために勉強すれば良いと思います。
「好きな理由」というのは、たくさん勉強しないと自分自身にだって把握できないし、ましてや人に伝えられない、難しい事柄だと思います。私の場合は、「こういうものが好きなんだけど」と伝えたくても、「なんか変なものが好きなのね」で片づけられてしまっていました。だから、説明したくて、説明の言葉を探して研究をしてきました。
美術や文化を勉強するのなら、頭だけでなく体を動かさないと勉強になりません。もし、体を動かすのが嫌なら、私のゼミに来てはいけません。体を動かすというのは、関心を持ったものを現地まで見に行ったり体験してみたりすることです。例えば、有名な「モナ・リザ」の絵は、誰でも「知っています」が、パリのルーヴル美術館まで行かないと「見られません」。「じゃあ見に行こう!」という発想が必要です。
「どこそこに行ってごらん」と言われて「行ってみよう」と思える人、自分から行きたい場所を探せる人、そういう時間を積み重ねていくことが楽しいと思える人は、美術史を学ぶのに向いていると思います。確かに、遠方だと学生にはハードルが高いんですけどね。それでも、なんとか工夫して見に行きなさいと自分の学生には言います。インターネットで全世界にアクセスできても、美術史の論文は書けません。またそういう学問であるからこそ、大学で学ぶ意義があります。
学生証を見せれば無料で入れたり割引になったりする文化施設も、皆さんの身近にたくさんあります。ぜひそういった学生ならではの特権も活かしてください。使わないのはもったいないですよ。
文化は、目にはっきりとは見えないんですけど、一世代手を抜くと一気に荒廃します。常に水をやって肥料をやって、草を抜いていないと荒れてしまう庭なのです。それは歴史・美術史を学んでいるとよくわかります。日本の美術史を見ていると、私たちの先祖や先輩たちが常に文化の土壌を手入れしてきたこともよくわかります。そうして何世代にもわたって、良いものが継承され続けてきているのは、日本の文化の特質です。だから、現代の私たちにも次の世代につなげていく責任があります。他人事と思わずに、当事者としての意識が必要だと思います。
人類の義務だと思ってください。大学進学に至る勉強だけではなく、会社では仕事の勉強が待っています。どんな場合でも、失敗をしたら、改善するために勉強します。この世に生まれてしまった以上、無意識にでも何かを学び続けているはずです。大学とは、「勉強」を特殊な形で制度化した場所です。いくつかのジャンルに分けて、それぞれの部分を共同の作業でもって発展させていく役割を持っているのが大学です。大学に進学するということは、「その作業に私も参加します」と手をあげるということですから、入学した以上は参加しなきゃしょうがないですね。「お客さん」ではなく、当事者です。大学だけでなく、専門学校や会社、あるいは家庭の中にもいろいろな場所に、勉強する場はあると思いますので、そういった意味では大学にこだわる必要はありません。